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おすすめ度: 私小説形式の社会学的SF 人間性原理。宇宙がこのように人間の誕生に都合よく出来ているのは、人間がいるからである。人間が観測できるものだけが存在する。人間が存在しなければ、この宇宙はない。別な宇宙があるかも知れない。 量子コンピュータの持つ特性から、理論上無限の結果が生まれうる。これがネットワークによりある臨界点を超え、様々な並行世界が誕生、したのかもしれない。主人公はある日、その並行世界の向こう側から、生まれなかったはずの娘からのメールを受信する。その名も風子!風子は30年の時空を超えてメールを送信してきた。どうも向こうの世界に穴が開いたらしい。T大学の准教授である主人公の教え子には渚! ある世界では、渚の子供の名前が汐子! CLANNAD臭漂う命名の登場人物達。 複数の世界があり、タイムパラドクスが絡む展開は、東氏が入れ込んだ舞城王太郎の九十九十九 (講談社ノベルス)の影響か。 新自由主義が極限まで追求されてGPSチップを埋め込まれた人間がいる世界は、東氏のポストモダン論で出てくる環境情報世界の究極系か。 物語1というプロローグ、物語2というエピローグが同一世界でありながら、途中の話の展開で微妙なズレを生んでいる。これは量子が観測された事による状態の変化・確定なのか。そんな思いに耽溺しながらあずまんテイストを楽しめる人には楽しめる。 なぜ小説でなければならないのか? あたりまえのことかもしれないですけど、小説は小説としての形式をとることが最善の「何」かを伝えるために書かれるものであり、批評も同様であると思います。 批評家であるか筆者が、あえて小説としての形式を取って「何」を伝えたかったのか私にはわかりませんでした。内容は、量子力学を初めとする物理学、SF、哲学についての知識を前提に書かれており、また筋書きも複雑に錯綜しているため読みにくいかもしれませんが、それは本質的な問題ではないでしょう。用語も少し調べればわかるようなもので、またわからなくても、前後関係から理解できると思います。 文体的には村上春樹とフィリップ・K・ディックを足して二で割ったような感じです。面白くはあったのですが、それは「物語」としての面白さであり、そのようなものは筆者が目指すものではないと思うし、あの「東浩紀」が書くべきほどのものではないと思います 私は何か勘違いしているのでしょうか? 小説あるいは小説としての批評。東浩紀氏のこの10年くらいの活動を圧縮したような感じがしました。 まず東氏の活動を知っている人が読むとどうなるのか? 東浩紀のここ10年位の活動を濃縮している感じはします。 よってこの小説外での−−わりと賛否両論ある−−東浩紀の活動に対する評価と この小説への評価はパラレルになってしまうかもしれない。 小説を面白いと思った人は東氏の批評を面白いと思うだろうが 東氏の批評を面白いと思わない人は小説を面白いと思えないかもしれません。 では東氏のことを何も知らない人が読むとどうなのか? まずこの小説はゼロ年代の日本文学を代表する作品になると思います。 (思想だとか批評だとか現代文学とかSFに興味を持っている方は必読でしょう) しかしながら急いで断っておかなければならないこともまたあります。 まずこの小説の個別の設定の中で新しいものは何もない、ということ。 東浩紀は、例えば今までの日本文学に大勢存在したような種類の文学的な天才ではない、ということ。 そしてこの小説は全体的にライトノベル的な想像力(あるいは構想力、とでも言った方がよいかもしれないが) によって作られていること。 だからこれは本当に新しい文学とは言えないと思います。 物語に出てくる多くの設定やプロット上のトリックは過去の様々な小説にでてくるモチーフの複製の感あり。 また文体の力もそこまであるとはいえない気がします(例えばこの小説が参考にしていると思われる村上春樹や村上龍、大江健三郎やPKディック、JGバラードの小説が持っているような文体の力はないように思えました)。 けれどもそのことが却ってこの作品が優れて「現代の日本の文学」であることを裏打ちしているのではないかとも思いました。 いわゆる「純文学的なもの」が抜け落ちていることが、却って、小説の中に出てくる様々なエレメント(モールなどを中心にした郊外の生活、ネット、外国人排斥、新興宗教、ペドフィリア、量子力学、哲学、家族関係、二次創作)を生々しく表現させることを可能にしている。 つまり日本社会や文化の様相をかなり上手に反映することに成功しているように見えるのです。 それは東浩紀が批評家であることに強い関係があるのでしょう。 けれどもこの小説が小説として成立しているのは、主人公のかなり生々しい私小説的な体験談なり葛藤なりが、中心軸になることで、 かなり雑多でかけ離れた様々な構成要素を違和感なくまとめることができているから。 その手際にはとても驚いたし、脱帽というか、現代の小説読んで久々に感動したことを白状しなければなりません。 だから興味持った方は買ってみて損は無いのではと思います。 ただし哲学ネタと量子力学SFネタはある程度知ってる人以外でないと分かりにくい部分が多く、 小説の内容(作者本人のことを知らない人にも、できるだけ多くの人に読まれる事を意図して書かれている気がします)と比べて その辺りは不親切かもしれません。 -----------------以下ネタバレ----------------------------------------------------------------------- あと多重人格の解釈は正直気になりました。わざわざ多重人格の概念を使わなくても、幽霊の憑依とかでいいと思う。 実際に多重人格の人が現実にいる以上、あまり現実味のない設定にするのには最後まで違和感が残りました。 (なおペンローズの話や量子世界は理論の域を出ていないのでうかつに信じ込むべきではないでしょう。面白いけど。) とはいえ正直その辺の萌え系ともセカイ系とも違う、歴史改変ものSFをベースに、かなり色々詰め込んでいる小説で 個人的にはかなり面白く読みました。 主人公は全く格好良くないし、小説の構造は緻密ではない。文学的な文体でもありません。 様々なガジェットの引用の仕方もそこまで上手いとは言えない。(実質小説デヴュー作なので仕方ないとも思いますが) けれども、人によっては欠点とも読んでしまうようなそういう面も含めて、 この小説がこの国の社会的、文化的なリアリティーのある面をかなり雄弁に物語っているのは間違いないのではと思うわけです。 言い換えれば主人公の格好良く無さ加減と物語環境の醜さ加減と物語とキャラクターのライトノベルっぽさが、 現代の日本社会の反映になっていて、それがこの小説の良さ、というより説得力ですね、の担保になっている。 (実際のところ読んでいて唐突な展開や、若書き的なぎこちなさ、特に心理描写における時折の作り物っぽさ、台詞回しの若干の演劇性、後付で足し算していく展開、などについて個人的には首をかしげる部分もあったのですが、ただ普通の小説としてそのあたりのことにこだわりすぎて厳密に書くと、作品としては却って失敗したのではないか、というかこの小説の中にある視野の広さや「小説の外にある実際の現実」と結びついていることで得られるリアリティーは失われてしまっていたのかもしれません。難しいところですね。) そう、小説の外の現実、例えば秋葉原の加藤テロ事件に対する作者なりの回答がこの小説に込められているのは間違えないでしょう。 そして小説に出てくる事件、例えばテロ事件の陳腐さや短絡性は、秋葉原の事件そのものが持つ、ほとんどむごたらしいまでに幼児的な陳腐さとの関連を見ることができるのではないかと思います。私自身も、ご多分に漏れず、あの事件について「特にもし自分の人生が少し違っていたらテロを起こすような人間になっていたのでは?」と考えたりもしたわけですが、いわゆるオタクカルチャーの中に深く浸かっている作者にとってはなおさらそうだったのかもしれません。小説としての厳密さよりも、文章として同時代的であること−−例えば人間が操作可能な記号に貶められた挙句に次から次へと自殺したり鬱病になっていくこの社会の現実に対しての作者なりの態度表明がこの小説からは読みとれるわけです。 そしてそれはーーその態度表明はーー多分批評ではなく小説(あるいは小説としての批評)でなければならなかったのかもしれません。 批評は、対象を記号化することはできる、そしてそれが思想であることによって普遍的な神話を作ることはできる、 ある程度個人的であることも、社会的であることもできるし、虚構であることもできる。けれども。 そういったものを一つの動的なまとまりにして表現するには、物語の力が必要なのではないか。 感情的なものや性的なもの、SF的な想像力さえも交えて、一つの「個人的な全体」を形作るということ。 実人生そのものを、物語という動的で多声的な虚構に置き換えて抽象する、ということ。 物語とは、この小説で引用されているPKディックの言葉「動的な生ける情報システム」なのかもしれません。 社会や哲学や科学に対して、文化的なものに対して、想像力を自由に働かせて、 それを(私的な立場も含んだ意味での)個人的な立場から広く深く語る、ということ。 おそらく小説こそそういう行為にもっとも適した表現方法なのだろうと思います。 どんな主義主張も特別に有効な価値を持たないかに見え、個人が空疎な記号や広告の中に押し込められてしまう現代において、 おそらく小説をはじめとした文学は、批評にはない一つの力となりうると思うわけです。 だからこの小説にはどこかジッドやドストエフスキーに通じているところがある。 もっとも、うまく批評するために小説という形をとっている印象、 「批評としての小説」という面が、強くですぎているきらいはあるのかもしれません。 天才的とは思わないし、若書き的なところ、少し観念的、言い換えれば図式的に物事を運びすぎている面も、否めない、 ただ小説として誠実であることは確かだと思います。 そしておそらく、抜群に批評的で現代的な小説だと言えるのではないかと思います。 長々と読んでいただいた方、どうも有難うございました。 著者のことを知らずに手にして難渋した読書がやがて魅力的なものへと変わっていった 2007年、作家で大学教員でもある葦船往人(あしふねゆきと)はある日、見知らぬ人物からの電子メールを受け取る。それは2035年の世界に暮らす彼の娘・風子(ふうこ)からのものだというのだが、彼にはそもそも娘はいない。このメールをきかっけに、本来この世界では存在しなかった並行世界に生きる家族が、時空の垣根を越えて交錯していく…。 朝日と産経の新聞書評に取り上げられているという事実だけで手にしたのですが、作者の東浩紀の名前も、彼が日本の現代思想界を牽引してきたスター的人物であることも全く知らぬまま読み始めたため、本書に登場する難解な専門タームの連なりに最初のうちは面喰いました。 しかしそうしたタームにある程度の割り切りと見切りを決め込んだ上で腹を据えて読み進めると、これは中途で投げ出すどころか巻を措くことが難しいSF小説であると感じました。 生まれてこなかったはずの子どもをまじえた家族関係が存在しうる世界にある日突然放り込まれるという展開は、P.K.ディックの短編『地図にない町』の結末を連想させますが、本書はそのディックの短編の結末から始める小説のようにも見えます。 事実、本書はディックの『ヴァリス』などのアリュージョンや、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』への言及がそこかしこに現れます。そうした幻想的並行世界に幻惑される悦楽を好む読者には、とても魅力的な物語といえるでしょう。 しかしそんな仕掛けを礎としたこの小説が描くのは、「量子的に拡散してしまった家族を再縫合する」物語です。 そしてやがて見えてくるのは、その家族とともに「偽物だけれど唯一の、まちがいだらけだけどやりなおしの出来ない人生を歩む」ことの尊さ。 その結末に強くうなづく読者は決して私だけではないと思うのです。 仏教の唯識論に似ている 量子理論を扱うと、SFというより哲学めいてくる。ハード科学でなく理論科学だからだ。そしてこの論理世界は、驚くほど仏教の唯識論に似ている。同一事象での因果の同時発現など、全く同じである。 で、面白かったかどうかと問われたら、面白かったと答える。特に中盤の展開は良かった。ただ、序章と終盤の説明的な所は残念だった。説明や解説は、小説としては興ざめである。 結末は、あざとい。いい人、素敵な世界を支持します、てな感じであざとい。 だが、かなり本気で引き込まれた。余談だが、量子理論的並行世界を使うと、心霊現象とかのオカルト体験のほとんどを説明できそうな気がする。 パーマリンク : クォンタム・ファミリーズ |
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